こんにちは。電話占いアクシアの朱龍です。
今回は、「生まれた理由」について
考えてみたいと思います。
前回では「宿命と運命の違い」について
お話させて頂きましたが、
それに続く今回の
「生まれてきた理由」はとても難しいテーマです。
それだけに誰もが一度は対峙したことのある問題で、
答えを求めても深淵を覗くような果てしなさに
とらわれたのではないかと思います。
なぜ答えが迷宮のように見えないかというと
生まれてきた時には、
すでに太陽は輝き、宇宙の法則は定まり
人生の寿命は決まっているのに
人ひとりが「生まれてきた理由」など
本来初めからどこにもありはしないからです。
なかには、
愛の結晶とか、
種の存続とか色々な観点で後付けはされていますが
はっきりとは、誰もが
「生まれてこなければいけない」理由などないのです。
だからこの国に、
この親の元に
この時代に
この性で
生まれてきたのは
「宿命」としかいいえないものです。
前回にもお話ししたように
自分で変えれないもの・・「宿命」は
いくら納得できなくとも
人は生まれたてきた以上
その「宿命」を自分で受け止め
引き受けて生きていかなければ、仕方がないのです。
言い換えれば
意味や課題が初めからないからこそ、
自分で与えられた時間(人生)をどのように意味付け
位置付け、歩んでゆくかを、
自分自身で決めていくことができるのです。
生まれたからといって、
人生が約束してくれるものなど何もありません。
誰かが自分を誘導してくれることも、
安心安全を保証されているものでもありません。
無抵抗で、広い荒野に
丸裸で投げ出されたようなものかもしれません。
育てられた環境で、
ある程度の自我が確立したら
自分というものの本性を知り
可能な選択肢の中から自分を活かす
一番輝ける道を選んで
試行錯誤をくりかえしながらも
自分の人生を開拓していくしかないのです。
荒っぽい言い方をすれば
カテゴリーは違っても、
この世に生をうけたあらゆる動植物も、
そういった意味では同じ運命かもしれません。
植物は生涯生きる場所を
変えられないので、
生まれた場所にあった条件を受け入れ、
それでも光を求めて成長しようと努力し続けします。
寒暖差や雨量や光量の違いがあっても
こんな過酷な土地で・・・と
思われる地球のここかしこに
根を張って命をつないでいます。
ただ、人間の方が
より選択肢に恵まれただけ
考える力を持っただけに、
悩みや戸惑いも多くなります。
だからこそ
地球上で一番後で誕生したにも関わらず
これだけ早く進化し、
さらに生き延びようと
さらに何かをなそうという望みを
持つことができるのです。
つまり
人生が自分に意味を与えてくれるのではなく
自分で人生に意味を与えて
死ぬまで挑戦し続けるのが
「生まれてきた理由」につながるのです。
「運命」という言葉がでてくるのは
この間の長いプロセスです。
実に色々な人に出会います。
人だけではなく
自分にカルチャーショックを与えてくれるような
様々な出来事にも数限りもなく出会います。
私はこれらすべてが、
必然・・「運命」と思っています。
当然「自分とはいかなる人間か」を模索していると
つまりアンテナを張っていると、
一つ一つ出会いの意味がわかってきます。
と同時に別れの意味もわかってくるはずです。
そうやってドンドンと自分の人生が濃くなっていくのです。
ただ、そうそう
「うまくいかないから人生」ともいえるのです。
なかには、自分の大切な人が自死したり、
幼くして亡くなったり
難病に侵されたり、
「一体この不条理はなんだ!」と
握りこぶしを挙げたくなる事実が
世の中には充満しています。
自分自身に突然ふりかかる不運もあれば、
愛する人を支えきれない悲運もあるでしょう。
「宿命」がもたらす不条理は、
まったく理不尽で、耐え難いものも多くあります。
先ほども触れたように
「生まれてきた理由」が
前提として用意されてないものなら、
それらの不条理に接してきた人は、
悲しみや苦しみを引き受けるかわりに
つらいからこそ、そこになにかの意味を
自分の人生を賭けて探し続けることになるのです。
人生そのものの価値は長さではありません。
どれほど濃く生きたかに終結されます。
人生の深淵を覗いた人は、
やはりそれでも「生きる」ことの得難い価値に
ふれることができると、私は思っています。
それができるからこそ
「人」として生まれてきたのであり
命を授かったことの尊厳に気づくに至ると思うのです。
前回では
流転輪廻の話を持ち出しましたので、
今回も仏教的な観点からみてみましょう。
現世で耐え難い苦しみを味わう人は
前世で気づくことなく他人を傷つけ、
傷つけた自分の行為すら
自覚しないまま亡くなった場合・・・
次の世で、自分が行った行為と全く逆の立場に立たされ、
自分のしたことの非情を知らされるといわれています。
「悪人なおもて往生せん」と説いた親鸞の言葉の通り、
偽善や無関心に身を任せた人間に比べ
悪人(自分の罪を意識したもの)は、
死ぬまで自分の犯してしまった罪の意識に怯え、
さいなまれ、後悔し、出口のない苦しみを抱いたまま
自己嫌悪の中でさまよい続けなければなりません。
それもまた皮肉なことですが、
自らの悪を意識することで、
はからずして人生の深淵を覗き、
苦しんだだけ
「生きる意味」を考える機会を
与えられることもあるのだと思います。
救いのない話ですが、
人は生まれたときから、
すでに終末に向かって進んでいます。
「生」と「死」は表裏一体、
「光」と「影」のようなもので
切っても切り離せない関係です。
どんな理想や夢も、
そのほとんどが完結しない前に、
肉体の終焉をむかえ、
バッタリと倒れて、おしまいです。
人偏(にんべん)に夢と書いて
「はかない」と読ませるのは、
昔から夢の本質をみぬいていたのかもしれません。
では、夢・希望・目標なくして、
人は前をむいて生きられるものなのでしょうか。
やはり、明日を信じるからこそ、
今を生きられるのかもしれないと思うことがあります。
また同時に、
生をうけて、生かされているということ自体が、
壮大な夢なのかもしれないと思うこともあります。
ただ、私達にできることは、
命の炎が燃え尽きるそのギリギリまで、
それでも「今」を生き切る、
それこそが「生まれてきた理由」に
つながるものだと私は思います。
夢はあくまで生きるための目標であって
それ自体が目的ではありません。
そこに行き着くまでの毎日の積み重ねが
人生とよばれるものなのでしょう。
よく若い相談者の方から
「私の人生、これからどうなりますか?」とお電話いただきます。
「それがわかったら、あなたがこれからの自分の人生
生きる意味がないじゃないですか?」
と思うのですが、いかがでしょう・・・
「メメントモリ」・死を思え・・私の大好きな言葉です。
「生」と「死」は表裏一体。
限られた時間を意識して、
自分の命を輝かせ、どんな些細なことでもいいのです。
その輝きでまわりを照らす術を見つけて頂きたいと切に思います。
人は人によって傷つきもしますが、
人である以上、人と人の間で生きていくしか術はありません。
人から受けた傷は、また人によって癒されもするのです。
人と人の間で生き、
お互いの相手の幸せを祈り
幸せを与えることによって、
自分も幸せを感受し
お互いに「生きる意味」を探っていくことで
「生まれたきた理由」から「生きていく理由」に
繋がっていくものと思います。
今日も、長い文章を最後まで読んで頂き
本当に有難うございます。
また、お電話お待ちしております。
占い師朱龍でした。
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